甘すぎた・・・・

そうこうしているうちに、8月の終わり頃になって、「郷原の刑法」を読み終えた。読了したのはこれで3冊目である。

もう4月からは5か月経っている。それでも、まあ1科目がとりあえず終わったというのは嬉しい。

ただ、理解はあまりできていない。他の科目のように、寺本の本と別の本の2冊を同時に読み進めているわけではない。確かに1冊だけならすぐ読めるはずだった。

 

これまで憲法民法、刑法、行政法の4科目を並行して進めてきた。刑法以外はいずれも寺本の無料ネット講義がついているので、何とかこなしてこれている。

だが刑法は郷原の本1冊だけだったのでまだ知識は浅い。

 

しかし、私は一刻も早く最初の4科目を終え、順次、残りの3科目(民事訴訟法、刑事訴訟法、商法)に移行したいと思っていた。

私の頭には、例の東大理Ⅲの河野君が、8か月の勉強で司法試験をクリアしたと言っていたことが頭にこびりついていた。

もしそれが予備試験だったとすると、来年5月の中旬に短答式試験があるとして、8か月前というのは9月の途中になる。

何としても、その時までに全ての科目に手を付けていたい。そんな気持ちが強かった。

だから、1科目でも読み終えることができたことは嬉しかったのだ。

 

ようし、これで第1目標はクリアだ。刑法って意外と覚えることがないな・・・・私はその時は安易にそう考えた。

そして、原先生か吉野先生の無料入門講座で、受験生の中で、刑法を真っ先に終わらせる者が多いと指摘されていたのを思い出した。

確かに刑法はいちばんマスターしやすい。構成要件、違法性、責任、共犯や未遂犯、それから個別の犯罪を1つ1つ覚えていけばよいだけだ。

それに比べ、民法はやっと総則・物権が終わっただけ。寺本の民法Ⅱ(債権・家族法)を同じかそれ以上の労力で読んでいかねばならないと思うと気が滅入った。

民法は一番最後までもたつくだろうな。何となく講師の先生が言うのが分かった。

 

しかし、思い違いも甚だしかった。

さて、じゃあこれからは問題演習をやろうっと思った。そして、刑法の短答式の過去問を見てみた。

えっ・・・・。

 

私が考えていたより、数段難しいのである。

私は刑法以外の科目では、寺本の本を読んでいた。そこには行政の過去問が単元ごとに掲載されていた。

それをやると結構できていた。正解の問題だけを選べばよいだけだった。又は正解の問題の組合せを選べばよいだけだった。

 

ところが、刑法の試験問題は全然違うのだ。たとえば・・・・

学説AとBとCとDがあり、また、①という判断、②という判断、③という判断、④という判断があり、具体的な事実として、イ、ロ、ハ、二がある。

全部正しい組み合わせは次のうちどれか。

・・・・

 

全然、できない。そもそも学説の微妙な違いが分からない。

そしてそれを具体的な事実がどのように判断の違いを生むか、また具体的事実がいったい、そんな学説や判断とどんな関係にあるのか、

1つとして分からないのである。

 

・・・・勉強を開始してから既に5か月も経って、いや計画を立ててから半年も経って、私は自分が甘すぎたことを知ったのだ・・・・。

1冊読み終えたゾ!

司法試験の勉強はどうかというと、あまり効率は上がらなかったが5月からの勉強を続けていた。

そして、8月の始めになって、やっと本を1冊、読み終えることができた。

それは、「寺本の民法Ⅰ(総則・債権編)」だった。わざわざ楽天で正規の値段で購入した5冊の本のうちの1冊だ。

寺本先生の語り口は非常にマイルドで、かつ的を得ており、ネットで講義を聴いている時は(あたかも)よく分かったつもりになった。

 

それとほぼ同時に「郷原民法(総則・債権編)」も読み終えた。こちらも、まずまず分かりやすかった。

(というか、試験対策用その他で、これら以上に分かりやすいものはないかも・・・・。)

と言っても、これで民法の総則・債権が全部分かったかというと、全くそんなことはない。

どんな所から聞かれても、1つとして、自分の言葉で分かりやすく説明できるものはない。それに最初の方は8割方、忘れている。

 

このため、ブックオフでもう1つ、簡単な薄い参考書(「ゼロから始める民法入門」(高橋裕次郎))を買ってきて、その総則・債権のところをざっと読んだ。

それで、大分分かったつもりになったが、まだまだ実践には程遠い。

自分はこんな勉強の仕方をしていて本当に大丈夫なのかと疑問を持った。

まあ医学部入試は何となく土地勘はある。こうすれば点が取れると、自分も思い、また子供たちからのアドバイスも受けている。

だが、司法試験は、全くの自己流もいいところなのである。

自己流でやっていることが否定されるのが怖くて、まだ実際の予備試験の問題をろくすっぽ、見ていないのである。

 

こんな杜撰なやり方を書いているのを見て、本当に司法試験を目指して努力されている方々にはきっとあきれられるだろう。

まあ、ただ、もし私のやり方、すなわち

  • いきなり難しいことをするのではなく、まずはとっつきやすいところから始めて、次第に難しいものに挑戦していく。
  • 問題を中心に解き、分からないところはよく考える。

がうまくいき、短答式や、まかり間違って論文式試験に通ったならば・・・・それは、私としては法外の喜びになる。

 

それはつまり、試験に受かった先のこと、弁護士になるのに一歩近づいたという喜びではない。

まさしく、受験老人のチャレンジに成功したことの喜びである。つまり、SASUKEの1st stageをクリアーした喜びである。

最低限の時間とお金を使って。

まっ、妄想力いや想像力だけは人一倍あるのだ。

 

T医大のこと

連休中の1日を利用して、T医大であったあるワークショップに出席した。


世界生命倫理デ―の記念行事だとのことで、講演と抱き合わせで、参加型の研修が行われることを知った。


参加は無料とのことで、貧乏で好奇心の強い受験老人は、思わず申し込んだのだ。


研修は、医療機関が患者の治療を行う際、はたしてその治療を行うべきか否か、選択を間違わないためにはどうすべきかがテーマだった。用意された実例を用いて、この場合にどうするか、あの場合にどうするか、とグループに分かれて侃々諤々議論するというものだった。


確かに、実際の医療現場ではお医者さんは判断に迷う場合もあると思う。がん患者で治療しても危険が大きく、かえって寿命を縮めてしまうようなケース、植物状態になって無駄に延命治療を続けても仕方ないのではないかと思われるようなケース等。大原則としては、本人の意思が第一だが、それが確認できなかったりあいまいな場合は難しい。


私はこれまで知らなかったのだが、こんな時、医療関係者も患者もともに自信を持って判断が行えるようにするために、ジョンセンという学者が4分割法という手法を考案している。つまり、以下の4項目に分類して、それぞれの状況をまず把握するところから始めようというものだ。


(以下、ちょっと細かくて、難しくて申し訳ない。)


・医学的対応(どのように診断されたか。予後はどうなるか。治療目標は。治療の効果とリスクは。やっても無駄かどうか。)


・患者の意向(患者の判断能力は。ちゃんとインフォームドコンセントが得られているか。治療を拒否していないか。事前に意思表示(リビングウィルという)がなされていないか。代わりに判断できる人がいるか。)


・生活や人生の質(QOLという)(QOLは実際にどうか。それをだれがどのように判断するのか(実際に何が患者にとって最善なのか等)、QOLに影響を及ぼすような事情があるか。)


・周囲の状況(家族や利害関係者はどう考えるか。守秘義務はあるか。治療費は払えるか。医療施設の方針してはどうか。法律滋養問題ないか。宗教や慣習上問題ないか。医療事故があった場合どう対応するか。情報開示は。)


う~ん。いちいち、こんなにいろいろな情報を集めた上で、判断を行わなければならないのか。私はちょっと驚いた。


医師だけが対応するのではない。看護師や、技師や、カウンセラーや、事務方等が情報を持ち寄り、そうしたデータを踏まえて、これら関係者が相談して結論を下すのである。


もちろん、判断に迷う場合が中心になるだろうが。しかし、患者にとっては、こうして全てを考慮してくれて決めてくれるのであれば、満足度は高く、また、医療関係者にとっても、判断を行う上で考慮すべきことは全部したということで、一安心かもしれない。


参加した人は20人余りで、それがグループになって議論を行ったのだが、参加者には実にさまざまな人たちがいた。学者、医師、看護師、弁護士、製薬企業の人。原発反対者や僧侶までいた。こうして異業種が集まると、議論が活発になる。


しかし、私が感心したのは、皆、それぞれの立場で、実に真剣に物事を考えているということだ。特に医師や看護師は、実際の現場でも判断を迫られることがあるのだろう。話に説得力があった。


その中で、知識や情熱のない受験老人としては、ただただ皆の議論をぼうっと眺めていただけで、あまり気の利いた発言もできなかった。自分自身のふがいなさ、もっとこのような場を経験することの必要性を痛感した。


ただ、1つ、感じたことがあった。こうして各分野の人たち、特に専門家も集まって、こうした手法を用いても、それでもまだ判断の分かれる場合があったことだ。これはなぜだろう。仕方ないのか。


やはり、私としては、国や学会が、もう少し判断のしやすいようなマニュアルをきちんと整えたり(厚労省の終末期医療のガイドラインは何度か改定されてきているようだが)、国でこうしたデータを各機関から集める仕組みを作り、各機関での判断の参考にするようにしたりすればよいと思う。


私は調子に乗って、「人が判断するから迷うのであり、将来的にはAIがそれらを含めて判断すれば皆が納得するのでは。」と口を滑らせ、皆から一斉に反発を食らってしまった。だがどうだろうか。将来は分からないと思うのだが。


それから、不祥事で評判を落としたT医大だが、こうした研修はもう10回くらいやっているとのこと。私にとってはとてもためになる研修だった。教員の1人1人にはこうして頑張っている人たちも多いと思う。大学全体として早く正常な軌道に戻り、評判を取り戻してもらうことを願う。

自分自身への挑戦

これまで何度か、私が医学部や司法試験を目指す理由を書いてきた。

だが、実は、これらのさまざまな理由よりも、底に流れている、ある感情がある。

それは・・・・自分自身への挑戦であり、ロマンを求める気持ちである。

 

私の年代は、マンガとともに育った人も多い。私もそうである。

私の好きだったマンガはあるパターンがあった。

とてつもない才能を持つ主人公が、貧しく要領も悪いため、差別され、不当に扱われる。

しかしあるとき、その才能が発揮されるような出来事が起こり、周囲は主人公の能力に気づき、あっけにとられる。

そして、お金持ちで恵まれているライバルに対峙し、最後にはライバルを打ちのめすのである。

これは、古くから、巨人の星あしたのジョー空手バカ一代(いずれも梶原一騎作品!)、エースをねらえ、さすらいの太陽、ガラスの仮面等に共通するパターンだ。

(もっともガラスの仮面だけはどうなるか分からないが・・・・美内先生、再開を願ってますぞ!)

 

まっ、これまでブログに書いてきたが、私自身、馬鹿にされた子供時代を送ってきたあと、テストの点がよかったことで周囲を少し驚かせた経験があったので、なおさら主人公に自分をなぞらえたい気持ちがあった。

しかし、結局、不完全燃焼のまま就職をし、のんべんだらりと行政をし、35年近くが経ってしまった。

 

結局、私はそんな主人公たちにのようにはなれなかったのだ。

私は、要するに、単に「テストができるだけの人」だったのかもしれない。

しかし、それなら、それを徹底的に突きつめてみるのもよいかもしれぬ。

 

それは、自分自身の能力への挑戦である。

医学部受験と司法試験受験を同時に、一年間で合格するなぞ、誰もやろうとしないだろう。(司法試験は予備試験があるので2年かかるが。)

だからこそ、やりがいがある。自分がまだ、何か壁に挑戦して、それを乗り越えられる力があるかを確かめたいのである。

 

だから・・・・先のことはどうでもいい。落ちれば、守衛でも掃除でも、工場でもコンビニのバイトでも何でもやる。(もっとも私には務まらないかもしれないが。)

そんなことに同時挑戦して何になるの、アホじゃないか・・・・と思われる方も多いだろう。だが、私はやってみたいのだ。

 

いい例えが見つかった。TBSで定期的にやっている「SASUKE」に挑戦するようなものである。

SASUKEの挑戦者たちも、壁があるからそれに挑戦するのだ。最後のゴールを目指して、自宅にセットまで作り、毎日鍛え、努力しているのである。

昔だったら、「そこに山があるから登る」と言ったヒラリー卿の如くだろう。

 

まっ、本当は、合格かゴールではなく、始まりであるということはよく自覚しなければならないのだ。だが、今はどうしても、そこが一つのゴールだと考えてしまう。
当然ながら、自分がやることが人を喜ばせ、人のために役立つことわ考えねばならない。だがまず大前提として、自分自身がそれをやってみたいかどうなのである。
でないと何でも長続きはしない・・・・いつも私が繰り返していることである。

 

目を閉じると、新・巨人の星の「甦れ〜飛雄馬〜」の曲が浮かんでくる。

・・・・自分は本当に単純で楽天的な人間なのである。少なくとも今だけは楽しい。
こうしてブログで自分自身の気持ちを確かめることも楽しさに拍車をかけている・・・。

秘策を編み出す!

さて、私が絶対に効率よく勉強するために、ブックオフで何を買ったか?

 

・・・・実は、半分もったいないと思いつつ、これまで買った参考書と全く同じものを、もう1冊ずつ買ったのである。

すなわち、以下のものである。

 

・数学:チャート式数学(ⅠA、ⅡB、Ⅲ)

・物理:漆原の物理(力学、波動、電磁気)

・化学:大宮の化学(理論、無機、有機)、センター試験化学の点数が面白いほどとれる本

 

私の手元には、元からあった分を含め、これらの参考書がそれぞれ2冊ずつそろった。

 

そして、私はそれぞれの参考書をハサミで切りはじめた。惜しげもなく。(まっ一冊100円か200円なのでそれほどもったいなくはない。)

そして、問題部分と解答部分をそれぞれ切り分けた。

本は表と裏の両面に印刷されているので、問題も解答も完全な形で切りとるとなると、2冊必要だったのだ。

(ただし物理だけは、問題に対する解答の量が圧倒的に多かったので問題だけを切り抜かざるをえなかった。)

 

そしてA4サイズの紙を半分に切り、表に問題、裏に回答を両面テープで貼った。(物理はそのさらに半分のサイズに問題だけ貼った。)

その作業を延々と続けた。何日かかかった。両面テープも何本も使った。

膨大な量の問題の山ができ上がった。

いちいち数えなかったが、数学は約1,000問、物理は約150問、化学は約500問になった。

 

そして、それを今度は、それぞれの科目ごとにぐじゃぐじゃにした。トランプのカードを切る要領だ。

そうすると、たとえば数学なら、数Ⅰ、数Ⅲ、数A、数Ⅱ・・・・というように、ばらばらにいろいろな問題が並ぶことになる。

化学なら、有機(大宮)、理論(大宮)、無機(面白い)・・・・てな具合である。

要は、アトランダムにいろいろな問題が出現する問題集を、自分で作ったのである。

 

数学と化学は、それぞれクリップで挟んで50枚ずつくらい通勤カバンに入れた。

そして、朝と帰りの鉄道駅までは、歩きながら数学をやり、帰りの電車の中では化学をやった。

数学も化学も、平均40分間くらいは時間が取れた。

 

ファイルの問題の中には、難しいものも、簡単なものもある。簡単なものはあっという間に解き方が分かり、計算する必要もないが、難しいものはいくらやっても分からない。

4-7月で1度全ての問題に目を通してはいるものの、全く初めてのように感じる問題もかなり多い。

コツとしてはこの時、1つの問題をあまり考えすぎないことである。そうしていると問題が数をこなせない。

そうして、自分が分かった問題はファイルからはじいて外に出し、分からなかった問題はファイルの後ろに回した。

分からなかった問題をこうしてファイルの後ろに回しておけば、また何日か後に出現することになる。

 

できた問題の数だけ、持ち運び用のカードの枚数が少なくなっている。なので、帰宅後、それと同じ枚数分、まだやっていない問題の山から取り出し、それを持ち運び用カードにアトランダムに挿入する。

すると、常に持ち運び用のファイルは同じ枚数分のファイルになっているわけである。

そして、できた問題は、もうやる必要はない。それは紙袋にまとめて入れた。

 

物理だけは、先に述べたように裏に回答を貼れなかったので、仕方ないので家でやることにした。これは1日30分。

これはしかし、数学や化学と違い、計算が必要だったのでちょうどよかった。机でやり、解答は実際の漆原の参考書で確認した。

数学や化学と同様に、できた問題は紙袋に移した。

こうして、毎日、こつこつとやっていこうとした。全部この山がなくなった時は自分はきっとどんな問題でも解けるだろうと夢見つつ。

第一段階が終わるも全く理解できていないっ!

さて、医学部受験を目指した私の勉強は、当初の計画とは遅れたものの、7月中に第一段階が終了した。だいたい4か月かかったわけだ。

 

第一段階とは何かというと、

・村瀬の地理(系統地理、地誌)、瀬川の地理(系統地理、地誌)

・数学のチャート(数ⅠA、数ⅡB、数Ⅲ)

・漆原の物理(力学、波動、電磁気学

・大宮の化学(理論、無機化学有機化学)とセンター試験 化学の点数が面白いほどとれる本

 

これらを、とにかく読み進めたのである。各科目、1日30分ずつ。ただし仕事やサボりでできなかったところは休日に挽回するようにした。

まあ、1日のノルマを「●章まで読む」とするとつらいので、こうして時間単位にして、その間はどんなことをやってもよいということにした方が気が楽だった。

 

もちろん、理解はなかなか進まない。

地理は全く覚えられなかったが、瀬川→村瀬 とやることにより少しだけ理解が進んだ。

数学は、得意だと思っていたが、私が学生の頃にやっていなかった統計処理、整数、複素数平面、二次曲線等で大いに苦労した。

物理は、原子編は途中で理解が付いて行かなくなった。(大学時代にファインマン物理学を何度も読んだのはいったい何だったのか・・・・)電磁気も磁気から混乱した。

化学は、金属元素の性質や、有機化合物、特に高分子化合物は全く覚えられなかった。

 

しかし、とにもかくにも、何とか一通り、終わらせた。

といっても、その段階で、センター試験の模擬テストをやったとしても、最初に受けたころとほとんど点数は変わっていなかったと思う。

単に、読んで、ああそうか、と理解した。又は理解せずに、単に目を通しただけだったからだ。

 

私は、成績を確実に、後戻りをしないやり方で伸ばす方法を見つけようとした。

ムダを省き、最も効率的に勉強する方法を必死になって考えた。

そして、いい方法を思いついた。 

 

そしてある日、再びブックオフを回ったのである。

本庶先生のこと

本庶先生のノーベル賞に、心からおめでとうと言いたい。

  


私が本庶先生に初めて接したのは、今から30年くらいも前のことだった。

 
行政をやるようになってすぐ、私は免疫系の研究推進方策作りを任された。

  


そこで当時の有名な免疫の先生を集めた。もう忘れたが、多田先生、高久先生等々、大御所の人たちが集まった。

 
本庶先生はその中にいた。一番の若手だった。

 
あのインターロイキンを発見して少し経っていたが、他の先生方と違い、現役バリバリの研究者だった。

 
だから、私としては、政府の会合で貴重な研究の時間を費やさせ、申し訳ないなあという気持ちが強かった。

 
先生は当時は映画から抜け出してきたような色男だった。

  


議論が始まった。どのように報告書を書いていくかということが問題になった。

 
会議の大勢として、分子レベル、遺伝子レベルから、細胞レベル、組織・器官レベル、個体レベルというように、すなわちミクロレベルからマクロレベルに向けてそれぞれやるべき対策を立てればよいという話になった。

 
だが、そこで、本庶先生は発言した。

 
「いつも免疫系の方針を立てるときはそんな話になるが、本当の研究とはそうじゃない。まず現象があり、その謎を解くために機関や組織、細胞、そして遺伝子や分子に帰着するのだ。だから、順番は逆にした方がいい。」

  


はあっ、報告書作りでそれはないだろっ。担当者として私はそう思った。

 
実際に本庶先生の意見は否定され、報告書はオーソドックスな形でまとまった。

 

 
だが、今から考えるに、本庶先生は、本当に、真剣に研究のことを考えておられたんだなあと思う。

 
行政では、常に無難に、あまり誰からも文句が出ないようにということが重視される。

 
だが、それではなかなかブレイクスルーは出ないかもしれない。研究グラントの仕組みにしてもそうだ。大胆に変える必要があるかも。

  


本庶先生はその後、科学技術会議の議員等になられ、それなりに改革もされつつ、研究にも、その実用化にも情熱を注がれた。

 
それがオブジーボとなって開花したが、そんな本庶先生を見ると、本当に人間としてやるべきことを全部なされたような気がする。

  


これは別の話だが、かつてカミオカンデを利用したニュートリノの観測で小柴先生がノーベル物理学賞を受賞した時、小柴先生はこう言った。

 
「私の研究は役に立たない。だが、役に立たない研究だが、(人類の知の遺産のため?)やる必要がある。」

 
だが、医学の世界ではそれは通用しない。医学の研究は、あくまでも患者のためにするものだろう。

 
(これは私ではなく、バイオ界の大御所である中村佑輔先生が持論とされていることである。)

  


その意味で、研究が基礎研究としても立派な発見となり、さらに多くの人々のがんを治し、人のために役立つこと。

 

こんな本庶先生の軌跡は、まさに私がやりたかったことだった。ただ、目的は「不老不死」だったが。


ああ、自分の一生はいったい何だったのか。


自分のやりたいことでもなく、また、人のために役立つでもなく・・・・・


そしてまた、自分は、いったい何をやろうとしているのか・・・・・


自分が実にちっぽけに見え、受験老人としては思い悩んでしまうのである。